小さな犬小屋の可哀想な犬 飼育放棄の虐待

‘私は本当は動物が大好きだ。動物に限らず生物の大抵がいとおしく感じる。
動物ものの映画を見ると、大嫌いなディズニーのものでも泣いてしまう。


一度は動物の殺害に加担するのが嫌で菜食主義だったこともある。
これは、その後、菜食の境界線があいまいで人間勝ってなことと、必ずしも食べることが理不尽なのではないと気付き、
その後は、今で言う「生態系主義者」になった。自分がこの結論にたどり着いたときには、まだ、エコロジーなんて誰も言っていなかったな。
ニワトリが狭い厩舎で卵を産み続け一生を終えることの悲しさを、学校で先生に話しても、全く理解してくれなかったのを良く覚えている。

そんな思いが高じて、ある程度大きくなると、いわゆる動物虐待を見つけると容赦ない行動をしていた。
大学の医学部では、実験用に針金でつながれていた犬を勝手に放したり。遊びで犬や鳩に空気銃を撃つようなガキは見つけ次第しばいていた。
もっと過激なことも、いろいろとやっていた。。
まるで、今のグリーンピースの過激な連中と同じである。


しかし、歳をとって、幾度かの間違いから学び、人生や世の中の不条理をある程度許容できるようになった。なったと思っている。


現在の事務所に移った頃から、その可哀想な犬には気付いていた。
線路沿いの小さな2階建ての家の玄関の外にくたびれた小さな犬小屋の中に、見かけはものすごく歳をとったように見える犬が1匹。
犬小屋のまえの杭に鎖でつながれ、1日中犬小屋の中にいる。
ほんの近所で、何かと用事のある道なのだが、一度としてその犬が散歩に連れて行ってもらっているのを見たことがない。
毛並みは汚れで固まり、綺麗な水もなく、寒いときも暑いときも、苔むした犬小屋で伏せっている。
その毛並みのせいで犬種は分からないが、日本犬と長毛の洋犬との雑種と思われる。


まだ二十代の頃は、このタイプの虐待を見つけると、何度か餌をやって懐かせ(虐待された犬は警戒心が強い)、機を見てロープを切って連れて帰っていた。
愛らしい若い犬なら新しい飼い主を見つけられるし、たくましい犬なら野良でもやっていける。
年老いて病気で貰い手もない場合は、私の手で安楽死させた。
虐待され生き続けるより、愛された瞬間に死んだほうが幸せだ。


しかし、今は行動しない。ただ毎日、前を通り過ぎる度に、「おはよう」「こんにちは」と声をかけ、その様子を見守るだけだ。


1年ほどはそもままであったが、2年目の春先、その犬はいなくなり犬小屋だけが残っていた。
その犬小屋も2日ほどで片付けられ、今は何の痕跡もない。


この犬の一生にはどんな意味があったのだろうか?
私がかつてのように行動すれば、違った一生になっていたのだろうか?


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