「つながる」時代の孤独が社会を蝕む 3

‘イスラム原理主義などのテロ事件を考察して

「つながる」時代の孤独が社会を蝕む 1 から続く
「つながる」時代の孤独が社会を蝕む 2 から続く

ネットワークで世界は接続され、いつ、どこでも、つながる社会になっている。
しかし、インターネット経由の情報はこれまで書いてきたように、単純で二元化された情報なので、個々の人が深く悩んだときには答えを出してくれない。実際、「うつ病」「自殺」などのキーワード検索しても、出てくるのは手当の受給方法の宣伝か宗教の勧誘である。深刻に悩んでいてもネットには答えがないのだ。
そして、ネットに依存している現代人は自分を見失ってしまう。友達かどうかも、同じサークルに属していないといけない、友達に追加されていないとならない。何かに属しているかいないか、ここでも二元化が進行しているのである。
ネットでの友達が極度に安易に作れるので、相対的に友達の価値は下がっているのである。そして、友達との親密さも画一的に序列化されてしまうのだ。Google+にはデフォルトでSNSサークルがある、家族、友達、同じサークルの人。人は利用時に自然とこれを親密な順と受け入れるだろう。家族や友人との親密さが序列化されているのである。
そして数値化すると、相手はそれによってその人との付き合い方を幾分か規定するだろう。
SNSでのつながりが人と人のつながりを逆に規定しているのだ。
しかし、実際の人間の付き合いは決して数値化できないだろう、そして相手との関係は決して平等なものでないはずだ。相手が大好きでも、相手にとって自分はただの友達。このようにアンバランスな関係こそが人間付き合いのほとんどを占めているはずなのに、ネットでは相互に同じレベルで承認されていないとならない。ビジネスでは名刺の交換や電話での話のあと、実際に会って取引するか決めるような作法が定番としてある。これは外国でビジネスする際に便利である。共通の作法で、徐々にレベルを上げながら相互に承認しあう。知らない人と親交を結ぶには良い。
しかし、友情や愛情で結ばれる相手もこの作法の上だけで探すには限度があるだろう。まして、このつながりから除外されても、その人自身が排除されたわけではない。それなのに人々はネットでのつながりを全てと錯覚して、それ以外のつながりを忘れてしまっている。
もともと、人々は出会いから友達になるまで、いろいろな試行錯誤を重ね、何がしかの経験を共有してつながっていく。何らかの社会に属して、そのなかで共にした時間を重ね親密になる。かつてはそれは生きていく上の必須の事項であり、そうしなければ何事もできなかった。買い物ひとつにしても、店のおじちゃんと話をしないと買えない店から、今は挨拶もせずに買い物するコンビニやドライブスルー・セルフレジが大勢を占めている。仕事でも事務職ならPCで行うので、会って話をする機会は減っているし、同僚が病欠しても気にならない。根本的に人づきあいが簡易に単純化されているのである。そこには人づきあいの深みはない。一種独特の雰囲気を有した人との出会いはないだろう。メールやSNSだけではその人の特殊な感性は再現されないからだ。
そして、このような簡略化された関係では人は自己を実現できないので、ネットのつながりによって疎外されていく。現実での人間関係に移行する手段を失い、本当の社会から閉ざされ、孤立する。引きこもりがネットワークと密接に結びついている点を忘れてならない。部屋に引きこもるのは、そう「出来る環境」があるからなのだ。部屋にいても簡略なつながりは保つことが出来る。ネットワークで外とつながることでかろうじて接触しているからだ。しかし、ネットでのつながりは、これまで述べたように関係性を単純化して序列化して規定するので、そこに依存している引きこもりの人の場合は極度に疎外されている。
ネット接続を解約したことを恨んで家人を殺害した事件があったが、手段としてネットの遮断は正解であったが、それに代わる人間関係・社会関係がなかった点が失敗だった。ネットのつながりに依存しきっている人にとって、ネットはその人の人格のすべてになってしまっている場合があるからだ。人は社会的な動物である。社会性に障害のある自閉症児を多数見ているため、引きこもりする人は非社会的でないことが分かる。何らかの社会性を求めているからこそ、ネットに依存して、自分の社会的な側面をネットに依存してしまうのだ。

さて、ここまで述べたことで分かるように、高度にネットワーク化された情報社会では、人はより画一的な価値観に流され、ネットワークに依存して現実から孤立する。追い詰められた人は、「真の現実」を見ようとして、極端な原理主義に走るの。
原理主義は原理原則に無理やり自分や社会を従わせる。ある意味、正しい。人々が正しいことと悪いことの中間で暮らしている現実を、ネットワークの画一的な価値観がさらしてしまうので、ネットワークに依存して疎外された人は原理主義を正しいと判断してしまう。正義の前に、親しい人の命などを比べるすべを失っているので、人の死の重さは戦争の死者数を数えるレベルで判断する。米国人のテロの被害者数よりアフガニスタンでのアフガニスタン人の死者数の方がはるかに多い点を彼らは見るだろう。それはアフガニスタン人への思いやりではなく、自らの周りの人への社会的な敬愛を失っているからなのだ。


情報化、ネットワーク化は新たな成長産業と結びついて、今のところ歯止めなく進んでいる。しかも急速に。そして、現実の社会はそれに対応できていない。これほどまでに極度に社会と人間関係を変化させているのに、学校や地域社会で考察されることがない。息子の小学校でネットワークに関する教育があったということを聞かない。道路の通行と同じように危険があるのに。情報化の急速さは世代を分裂させ、学校での教師と生徒の分断は情報化の点で顕著である。先生のほとんどはラインでの中傷の重大さを理解できないであろう。ある写真をある人にはシェアしなかった、そのことだけでいじめは始まるのだが、先生はラインなんか無視しなさいというだろう。それは正解であるが、生徒の苦しみを理解していない。


情報化社会で孤立した子供たちが原理主義へ向かう。我々は情報化の進行に対応する現実の社会システムを構築し、教育し、その孤独を理解しなければならない。そして情報化が遠因として誘発している単純な報復主義的な政治傾向に警笛を鳴らして自己を戒めねばならない。安易な報復主義から決別しなければならない。
米国の戦争は目的を達成できない。そればかりでなく、そのコストが社会に歪をもたらし、新たな災いを誘発している。戦費の1%、兵士の5%でも西アフリカに送ればエボラ熱の流行は抑えられるだろう。そしてそれは感謝や優しさをもたらす。欧米先進国は直ぐに水際で防ごうとするが、これは単純に考えても非効率的である。全世界の空港に赤外線スキャナを置くより、西アフリカ5か国10か所程度の空港に置く方が効率良い。しかも、エボラ熱は潜伏期間が短いので、本気でやれば1か月以内に収束するはずなのだ。
おそらく大多数の人はこのことに気付いているだろう、インターネットの情報とネットでのつながりよって鈍化して、感じなくなっているのだ。

日本の総選挙でも国民は自民党政権を支持したのではないが、考えるとことをやめたのは確かだ。考えても答えが出ない現実に目を背けているのだ。
現実を直視しなければならない、単純な答えの無い現実を直視して出来るだけ理解することだ。人の痛みや優しさを知ることさえできれば正気を保てるからだ。

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